(Y) カネ
ご機嫌よう。Yである。
今日は考え事を、する時間がたっぷりあったので色々考えた。
私の先輩が結婚すると聞いた。
5年付き合った彼女とらしい。
貯金は200万。
これから結婚指輪で40万。
婚約指輪で20万。
新婚旅行で30万。
社宅を出て月10万の2LDKに越すとの事。
これを聞いてどう思ったか。
カネが足りなくないか?
結婚した後は夫婦共働きでまたゼロから貯金するにしても、この手の人は新居に家具は必要だろうしきっと安くないもので揃えるだろう、そしてこの話の費用の部分では、そもそも結婚式の費用が入ってない。
指輪の価値は中古になった瞬間に落ちるだろう。それ以外は全部経費で残らない。
たった1つ上で会社勤め。給料なんて大して私と変わらない。はずだ。
これからの結婚生活を節約して過ごすのだろうか。子供の養育費や教育費、保険、、、どうなるのだろうか。
過労死、サビ残が問題視されている昨今はカネの重さと命に関して"生命の尊さ"的な視点で取り上げられる事が多い気がする。
しかし、生命の維持的な意味でのカネの尊さより段階的にはだいぶマシなところにもう1つ、カネと命のバランスがあると私には思えて仕方がない。
それは、QOLにも似た命(=人生)みたいな観点である。
QOLとは人生の充実度というか、その人がいかに人生を満足して過ごしているか、という数値評価できない指標である。完全に主観的な指標なので他人と比べることはできない。1億円持っていてもQOLが低い人もいれば人もいれば年収100万円でも幸せな人も居るだろう。
では、なぜ人生の充実度とカネが関係あるか。
それは、選択肢の広さである。
例えば私は最近バイクに無性に乗りたくなった。
バイク屋さんにフラフラ立ち寄るうちに一台のバイクに一目惚れし、そこから2,3週間をかけて9.5万円を費やし教習所に通って免許をほぼ取得したところまで来て、バイクはすでに18万円掛けて購入した。まだ完全に免許が取れていないのでわからないが、これからバイクに乗る時間を考えるとうっとりするほど楽しみで仕方がない。どこに走りに行こうかと思うとニヤついてしまう。
しかし、それはカネがあってこその事。
自由な時間があってこその事。
もし30万円持っていなかったら、教習所に行く自由な時間がなかったら私は永遠にバイクに乗れずに死ぬ事になる。
そうしたらきっと私は後悔すると思う。
やりたいと思ったことができる。それをカネで買っている。選択肢の広さがカネにより広がっているのである。
人間が欲求を満たすには少なからず金がいる。
ご飯が買えない。
家に住めない。
服が買えない。
もう少しこれ以外にも、別にできなくても死なないが、やりたい事はあるはずだ。
会いたい人に会いに行く
見たいものを見る
聞きたいことを聞く
知りたいことを知る
自然な欲求を満たす為にもカネがいる。
その量は人それぞれだろうけど。
だから、QOL的な観念ではカネはある意味人生において命(人生)ぐらい重いと言っても決して言い過ぎではない。
私は、これまでお金なんてなくても幸せだと思って来た。そして、タブー的にこの問題から距離を置いていた。
しかし今、こうもカネの現実を見るタイミングに差し掛かかり、自分の年齢的にも目を背けられないことを自分にも向けて書いておきたいと思った。
どれだけカネがいるか。
どうやってカネを手に入れるか。
どうやってカネを守るか。
何にカネを使うか。
もっと素直に、敏感になっても良いと思った。