丁字路

サラリーマンYと脱サラリーマンTが書くブログ

丁字路

―別々の道を選んだ2人の記録―

(Y) 強いものしりとり

ごきげんよう、Yである。

 

今回は数少ない閲覧者の皆様に私の発明したゲームを紹介する。

 

”強いものしりとり” である。

 

このゲームはアホな私が開発した世界初のゲームだ。

Googleで検索して出てこないものを探す方が難しい昨今、

この”強いものしりとり”は全くヒットしない。

つまり、世界初だ。

このゲームはシンプルなルールで遊び心と説得力があれば

誰でもできる。ぜひあなたの大好きな人とやってほしい。

友達、彼女、家族、浮気相手、株主、だれでもいい。

 

本題に入る。ゲームの説明だ。

 

”強いものしりとり”

ルール

①”ん”がついたら負け。

②同じものは2回使えない。

前の人よりも”強いもの”でしりとりを続ける。

やり方

では、やり方の説明に入る。

前の人より強いものを言えばいい。

例)さかな→ナイフ(魚はナイフで切られるとひとたまりもない)

        ナイフ→フリーマーケット(ナイフはフリーマーケットがあると売られてしまう。確実にフリーマーケットの方が強い。)

         フリーマーケット→取り締まり(取り締まられてはフリーマーケットが開催できない。よって強い)

 

こんな感じだ。

 

 

実際に私は、大好きな会社の友人とやってみた。

 するとこのゲームの真髄が見えてきたのだ。

 

略→苛立ち

→チーズケーキ(苛立ちは大抵チーズケーキを口にした瞬間、何処かに行ってしまう)

→キーパー(キーパーはチーズケーキをばくばく3個は食べてしまうだろう。)

→パリピ(せっかくゴールを守ってもパリピの群れは止めることができない。頭がおかしいからだ。)

→ピラニア(そんなパリピはアマゾンに飛び込んで、ピラニアに食われる。)

アマゾン川(アマゾンがないとピラニアはホームレスだ)

→ワイキキビーチ(観光客が選ぶのはアマゾンよりワイキキビーチだ!)

中華人民共和国(ワイキキビーチなんて何億の中国人が爆買いすれば中国のものだ)

→クーデター(クーデターが起こったら中国でもたちまちオワリだ)

→竜巻(クーデターを起こそうにもみんな飛ばされてしまう)

気象予報士(予想されては、竜巻けるものも、竜巻けない)

 

まあ、ここまで読んで面白みを感じない人は早急に読むのをやめるべきだ。

遊び心が足りない。

パンケーキのために2時間列に並んでればいいし、カプチーノを一眼で撮るべきだ。

 

注目すべきやり取りはここだ。

キーパー→パリピ

ここでパリピのミーハーさとかぎゃあぎゃあうるさい感じをディスりつつも、

アマゾン川→ワイキキビーチ

アマゾン川というコアなファンを持つ観光地にワイキキビーチなんてただ名前だけが先行した人気観光地を勝たせてしまっているところだ。

ちなみに私は両方行ったことない。

 

わりと、言ったもんがちなところがこのゲームの真髄であり、負けたと思った瞬間が負けなのだ。

 

決して諦めなければこのゲームは続くし、永遠にそれよりも強い物は見つかり続けるという事だ!

 

このゲームを通して、あなた自身が、あるいはゲームに参加したメンバーが、本当に勝ってほしいと望むものがわかる。

 

強い物がわかるのではなく、強いと信じたいものがわかる。

 

時→希望

 

時を超えて人々は信じ、祈り、希望を持つ。

 

そんなしりとりの最後になれば、それはきっと勝利だ。

 

ゲームを行なった全員の勝利と、お互いを認め合い賞賛しよう。そして互いの勝利に祝杯をあげるのだ!

 

 

 

 

希望→ウソ

 

 

 

 

 

 

 

では、次回は銭湯の特集(露天に関して)だ。

 

ごきげんよう

 

 

 

 

 

(T)鈴木のたっちゃん

たっちゃんが自分の金玉は3つあると信じていることが発覚したのは小学2年生の授業参観の日だった。

おそらく保健の授業だったのだろう、確証はないが、それ以外授業参観で

”自分の金玉の数を数えてみよう”なんて企画はやらないはずだ。

 

たっちゃんとは、小学校低学年で最も仲のいい友達だったと思う。

フィリピン人ハーフのディグ・ニッコという悪友が転校してきて、

つるみ始めるまでとても仲良くしていた記憶がある。

 

たっちゃんはなよなよしていて、少しのんびりでさらに丸眼鏡をかけていた。

耳かきを絶対しないタイプの人間で(人生で2人で会ったことがある、祖父とたっちゃんだ)耳から時々黄色いのが出てた覚えがある。(祖父の黄色いのは見たことがない)

当時は耳から黄色いのが出ている事なんて全く気にならなかったし、それはたっちゃんも同じだったと思う。

 

たっちゃんの家は学区のはずれの団地だった。

家族も、ザ・団地家族といった感じで、幼心に暖かい雰囲気を感じていた。

 カップラーメンは必ず器に移してから食べるタイプの家族だった。

(このタイプは今のところ僕の人生で彼らの家族しか出会ったことがない) 

 

彼は自分のパソコンを持っていた。

親のお下がりかもしれないが、当時(1999年くらい)小学生がPCを

もってるなんて、いま思うとすごい事だ。

そして同じ学年の人たちが見れるHPを作っていた。

みんなではなせるチャットがあったり、簡単なゲームもあったと思う。

本当にすごい。現代の小学生だとしてもあそこまでできる子はなかなかいないんじゃないか?

それなのに、当時は特にそんなにだれも驚いていなかった。まあ小学生なんてそんなもんだろう。

いまあるかはわからないが、どうしてもそのHPの名前が思い出せない。

中学にたっちゃんがいたかの記憶もない。

同じ小学校なら私立に進まない限り一緒のはずだ。

 その頃になるとたぶん二人は明らかに違うグループに分けらてれいたんだと思う。

僕は活動的で少しやんちゃな事もするグループだった。

そもそもたっちゃんはグループというものに属してすらいなかったかもしれない。

いまになって欲をいえば、活動的なグループに属しながらも、たっちゃんとも

良い関係を築き続けていけるような少年でありたかった。

たっちゃんはとてもいい奴だった。

 

こういう経験は誰しもあるんじゃないか。

辛くて寂しい後悔。どうしようもない。

 

だが、僕は今回はここでちょっとがんばってみようと思う。

 

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(Y)GRというカメラ

 もうサラリーマンかどうかなんてなにも関係ないすごいただの趣味の話を始める。

 

多少攻撃的な発言をお許し願いたい。

 

一眼レフ買ったけど、デカくて黒いのを首から下げて散々歩いた挙句、とりあえず観光地でシャッターボタン押してにこにこしてる、なーんて勿体無いと私は思う。

私は、一眼レフは、ちゃんと使える様になれば後はセンスだけでどうにでも最高の写真を生み出せるツールだと思っている。

私はかつて、大手家電量販店で2年、カメラをアルバイトで販売した。販売と言えど、ただスペック暗記してこっちの方が綺麗に撮れますよ云々の世界ではない。大手量販店には完全に我々の理解を超えた客が来る。

 

他社とのレンズのコーティングの質の違いは?
ー分かるわけない。

 

レンズのフォーカスの駆動方式の他社互換と、スペックへの影響は?
ーもはや他社製品のこと。

 

カワセミ狙うんやけども連写7コマ/秒で追えるかな?
ーぴーぴー!チュンチュンチュン!

 

この様に限りなくプロに近いレベルの完全なアマにパワハラ並みの質問を浴びせられながらも生き抜いた私が感じたのは、初心者への不安である。

赤ちゃん可愛く取りたい。
お花撮りたい。
カプチーノ撮りたい。

なーんて人が沢山来るし、使い方を聞いて、実演したら素直に買ってくれる。
しかし、売り場で説明できる事なんてたかが10分20分、あの無数に謎のボタンがついた黒光りのマシンを使いこなすには程遠い。結局、上手く撮れないから使わなくなるってことが、1番の心配であった訳である。

そんな私も一眼レフのユーザーであり、時々投稿にも利用している。
一眼レフは使い方さえ覚えれば、最強のツールだ。

だがら私はハイアマチュアを目指さなくても、とりあえず自分が思った写真を撮れる。ってレベルまでには突き詰めてほしい。使い方をトレーニングしてほしい!と思うのである。
それまでに飽きてしまうのは勿体無い。

 

 

 


しかし、こんなに熱く語ったのに。

そんな一眼レフを先日売却してやった。

理由は単純明快、デカイから。
ポケットに入らないものは基本、デカイ。


Canon EOS Kiss X5

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まあ日本人の8割の家庭はこれ持ってるのでは?と思っている。

これはレンズ付きで5万ぐらいで手に入れてから三、四年使っていた。

お写真ちゃんはこちら

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ほら、"感"が出てる。
こんなもんテキトーにシャッターボタン押しただけ。
でもカメラが賢すぎて一眼レフ感が容易に出ている。
(F1.8の単焦点使ったことは秘密、F値がどうとかいう知識があるのも秘密。)
スマホでは絶対これは撮れない。
これにも理由がある。センサーである。
センサーはフィルムカメラで言うところのフイルムの部分。
センサーが大きいほど、情報が取り込みやすい。光がたくさん入ってきて、正確なお写真ちゃんが出来上がる。
スマホはその大きさ故に、センサーは黒ごまぐらいの奴しか載せられない。
しかし一眼レフでは切手ぐらいのやつがのっている。
これこそが写真に違いを生むのであり、一眼レフがデカイ理由だ。

ただし、この写真のためにこのデカイ一眼レフをいつも持ち歩くのは気が引ける。じゃあスマホでいいや、を大衆が下した結果が故の現在のカメラ業界の状況だろう。

センサーがデカけりゃいい写真が撮れる。
じゃあ"デカイ"センサーをちっこいカメラになんとか詰め込めないのか?
そう思わないだろうか?

それを実行したのがRICOHだ。

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RICOH GR

こいつはiphone6+ぐらいのデカさで厚みはタバコの箱ぐらい。
(かなりいい加減)

中身は一眼レフとほぼ同じだ。

勿論撮れる写真も同じ。じゃん。

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この色調はスマホでは出ないし、木の枝の一本一本の潰れもない。そして影の部分の圧倒的な漆黒はまさに光の情報をうまく捉えた結果だ。
この写真はポケットに入るこのGRによって取られている。

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特筆すべきはこのモノクロ写真のクオリティ。
ハイコントラストモノクロのエフェクトモードではこんな写真鼻くそをほじりながら撮れる。
(こう撮るための知識があったのは秘密。)

確かに、このカメラは、ズームができない、フォーカスが遅い、など多少の制限はある。
しかしそれを忘れさせるほど得られる写真のクオリティは高く、カメラのサイズは小さい。
私はこの実に合理的なマシンこそがカメラのあるべき姿であると思う。
しかも、USB充電ができるなんて、さあ、私を旅に連れてって。てなもん。

というわけで、こんかいは素敵なカメラの紹介だった。

一眼レフの魅力はゼロか?と言われるとそうではないので、ここで簡単な比較をしておく。

 

一眼レフ
◎フォーカス早い、正確。
◎素早いズーム。
◎バッテリー長持ち。
◎ファインダー覗いて集中できる。
◎動きが早いものもなんのその。
◎レンズ交換でまるで違った写真が撮れる。
✖️とにかく、デカイ重い。

 

GR
◎とにかく小さい、軽い
◎写真は一眼レベル
◎いいレンズ付き。

✖️ズーム不可→逆に写真には一貫性が出る。
✖️速いものは追えない。
✖️フォーカスが遅い
✖️操作に慣れた時に感じる直感性のなさ

 

以上、こんな感じである。

なぜか、一眼の方が良いところが多くなってしまった、、、


そう、これらの項目を見た上で決めて貰えば良い。マイカメラを!

少しでも参考になれば幸いだ。

 

では、次回は銭湯について書くとしよう!

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さらば。

 

(T)最近読んだ本

会社をやめた僕は、4月から再度大学に行く。

その受験の際に科目に小論文があったので、参考書を購入し、いくつか頻出課題を

あらかじめ練習して臨んだ。

(幸い合格する事は出来たが、練習した課題は出なかった)。

折角文章を書いたので、少しここでも紹介してみようと思う。

(新たにブログ用になにかネタを考えるのも面倒くさいというのもある)。

 

「最近読んだ本」

 

 出向先の大分でよく通った古書店でいつものように自分を肯定してくれそうな本を

探していると、あるタイトルが目に入った。

 

かもめのジョナサン” リチャード・バック著。

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中身をパラパラめくってみると絵本のようにかもめの写真が散りばめられている、

長編を読むのに疲れていた私はすぐにその本をレジへと持って行った。

 ジョナサンという名のかもめは、群れの他のかもめとは少し異なっていて、

食べることよりも、いかに美しく飛ぶかしか頭になく、その強いこだわりが原因で

群れを永久追放されてしまう。

飛行というのはこんなに素晴らしいのに、なぜ他のかもめは自分の考えを理解してくれないのかが理解できないまま、一匹でひたすら美しく飛ぶことだけを考えて、

次第に老いていく。

 ある日、自分のように美しく飛ぶことのできるかもめに初めて出会い、ついていくと、そこは飛行技術を大切にするかもめ達の集まった別の世界があった。

その世界でもさらにレベルの高い飛行技術を学び、極めたジョナサンは「もっと他人を愛するように」と長老から教えを受ける。

その言葉を彼なりに解釈し、昔いた群れに戻り、飛行の素晴らしさを広げていく。

 

 私は今まで4半世紀生きてきて、”他人を変えることは出来ない。自分の思い通りにはならない。”と他人に対してある種の諦観を抱きはじめていた。

 

 ジョナサンは、はじめは仲間のために仲間を変えようと躍起になっていたが、その後は自分一人のために自分を変えていった。

その姿を見て、自分も同じように変わろうと思うものが現れはじめた。

誰かを手本にして、”自分のために自分を変える”という考えが大勢に浸透したのを遠くから眺めると、誰かが多くの人を変えた風に見えるだけなんだ、と気づいた時、私の考えも大きく変わったように思う。

他人を思いやる前に、自分を大切にすることが何よりも初めの一歩だと悟った。

 

 この本は自分を肯定してくれなどしなかった。

代わりに私の凝り固まった悲観的な考えを否定し、新しく強い考え方を植え付けてくれた。

そのことをヒトからではなくかわいらしいかもめさんから教えてもらったのだった。

 

  

(Y)パンについて考えろ

御機嫌よう、諸君。

 

Yである。

 

統計によると日本人の8割は朝にパンを食べるらしい。統計、とは基本的に私がおかんから聞いただけの事を指すので深く議論する気は無い。パンを多くの人が朝に食う。事実だ。

一流のサラリーマンの卵になるかならないかもわからないただの会社勤め2年目として意見すると、朝食は大事だ。

なぜか。それがルーティンをつくるからだ。毎朝同じ事をすれば心が整う。ルーティンは私を落ち着かせ、その日闘うHEARTを作り上げる。私は朝起きると必ずCOFFEEをDRIPして、パンを食す。たまに時間がなくて、買っておいたお団子の時もあるがパンを語るにあたり不都合な上、あんまりバレて無いので秘密にしている。

 

パンとCOFFEEはまるでTAKAHIROとATSUSHIだ。一方が欠けることはあってはならない。2人が生み出すハーモニーこそ朝食であり、完璧なルーティン、そう、EXILEなのだ。周りの踊りの奴はお皿とか爪楊枝だ、いてもいなくてもいい。私は何があっても絶対朝にCOFFEEを飲むのだが、私は缶コーヒーと書いて"じゃどう"と読む癖があるのでDRIPしたもの以外をCOFFEEとは呼ばないことに注意して欲しい。

そんなこだわりがあるなら、じゃあCOFFEEについて書け?

 

甘い。甘すぎる。

まだ諸君は知るに値しない。

まるでベトナムコーヒーに角砂糖を2個入れたような甘ちゃんだ。

 

よってまずは、パン。ATSUSHIの前にTAKAHIROだ。ATSUSHIはソロデビューしソロアルバムをリリースしても良いがTAKAHIROはダメなそれと同じだ。

まず第一、パンについて、真剣に考えているのはきっと"チーム未完成"のお二人しか居ない。少なくとも日本では23年間生きたのにこのお二人にしか出会って居ない。"チーム未完成"は世界を股にかけて活躍するアーティストで神保町の古本祭り併催のアート横丁でお会いした。ちなみにその日はCOFFEE祭りも併催と後から聞いて、イタリアンローストのような苦い気持ちを味わった。

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これはその御二方が世界を股にかけ出版されている、"パン" (フルカラー写真集,¥800)である。多分発行数はそれほど多くなくわざわざ買うものでもないため、持っている方は非常に少ない極めてレアな写真集だ。コラムも付いている。私はこれを購入、熟読し、パンへの理解が如何に不足して居たか思い知らされた。気になった人は検索をお勧めする。より多くの人がパンについて考える機会を得る事を望むからである。

 

そして第二に、私は、パンについて、パンを食すことについて真剣に考えた、そして試行錯誤を繰り返した。そして一つの解を導き出した。

お聞きする。

みなさんはどうだろうか。

 

パンを何で調理する?

 

この問いへの返答は極簡単なものだ。

8割の人間はこう答える。

 

ああ、トースターで焼いているぜ。

 

決して間違いでは無い。確かにトースターはその名が示すとおり、パン(又の名をトースト)をトースティングするためのトースターであり、トーストをトースト足らしめるためにトースティングする以上でも以下でも無い。

 

しかし、思考を停止してはならない。トーストをトースティングし、トースト足らしめるのがトースターであれば、

 

 

 

フライパンはどうなんだ。

 

 

 

これに回答できる人間はいるだろうか。私は2割しか居ないと思う。残り8割の諸君に私から一つ、思考の提案をする。

先ほどの思考を応用して考えてみよう。

 

トースターはトーストをトースティングするならば、フライパンは、パンをフライし、パン足らしめるのでは無いか??

つまり、

1,パンがトーストである。

2,トースターはトースティングする。

3,フライパンはフライする。

以上3つの原理から、フライパンでもパンは調理可能だという理論が成り立つではないか。

これに関して。

常に物理は、原理に基づく。ある現象を考えるときに法則によってその現象を証明するが、最後に証明を裏付けるのが原理なのだ。

例を挙げると原理とは、例えばりんごが木から落ちる事を指す。つまり、重力である。重力は全てのものを下に落とす。例外はない。これが原理だ。

この原理を用いて、水平な公園のシーソーの真ん中から左の位置にりんごを乗せたら左が下に落ちる。という事は説明できる。

今回のパン、トースター、フライパンの件も三つの原理に基づいた証明が出来た。ここで大学の知識が生きるとは思いもしなかった。

この時のために親は学費650万以上をつぎ込み私を大学に進学させてくれたのか。私は大学に行けて本当に良かった。

そして、親に感謝しても仕切れないので普通に謝罪したい。

 

 

くじけずに、私は本日その理論を元に実証を行なった。

 

 

そう、パンをフライパンで調理したのだ。

 

 

まずはフライパンをコンロにかけ、プラスチックのチャチなツマミを一気に回し切った。

 

 

 

 

強火だ。

 

 

 

 

室内温度10℃以下のキッチン。フライパンの上に陽炎が立つ。じわじわと私にも伝わる熱気にたじろぎながらも私は袋から6枚に下ろされたパン、そう、トーストでありブレッドであるそいつを一枚丁寧に取り出す。そいつはクシャリという小さな音を立て恥ずかしそうに身をよじるナイロン製の袋を擦り開け、微かな粉塵とともに圧倒的緊張感のステンライススティールの銀世界、キッチンに躍り出た。

私は全く容赦しなかった。躍り出たパンの2辺をすっくと掴んだまま、灼熱に仕立て上げられた鉄製円盤縁付き板の上に誘う事に迷いなく、時間にして2秒はかからないうちに、真夏の晴天に長時間照らされた14時過ぎのプールサイドの漆黒の鉄製溝蓋の上とも言えるその場所へと寝そべらせたのだ。

そして時は止まった。

陽炎はパンを躱すように4辺から立ち上り鉄製板の滑らかに立ち上がっていく縁を舐めながら踊る。パンはその熱を、熱に踊る妖怪を諸共せずに鉄製板の中心に大の字になってくたばっている。

私はこの時、フライパンの上で起こる出来事に集中した。訪れた時間の静止。静寂の中に僅かな変化の兆しを捉えようとする私からは、高まる鼓動を抑えるためのブレーキはとうに外れてその辺に転がっている。集合住宅において最も悪質とされる行為でもあるにも関わらず、私が我慢しきれず奇声を発するまさにその5秒前.....

 

 

 

 

シュツ、シュトゥルム、シュツ

 

 

 

一瞬で私の五感は一つを除き全て停止した。

聴覚のみが500%の力を発揮しその変化を、音の波動として受け取ったのだ。

 

 

 

 

.....パンが、焼けた。

 

 

 

 

私はパンを焼くために、パンが焼かれる時間のために23年間で1,2を争う思考をした事を秘密にしたい欲求に駆られた事は事実であると述べる一方、誰かがやらなければならないという使命感にも苛まれた事をここに記す。

 

そして私はためらう事なく、投入時と同様そっと2辺を掴み上げ、裏表を返した。

 

袋から出した時は真っ白なアザラシの赤ちゃんの頬の肌見たく様子していたパンが、中心から四辺のミミに向かって円形に力強い焼畑農業を繰り広げていた。

私はそのあまりにも美しい放射状の模様に絶句し、見惚れ、酔った。もちろん裏面も調理したのだが酔いすぎて記憶がほぼない。

 

私は急いで出来上がったパンにバターを塗り付け、安物の紙ケースに封入されている賞味期限の僅かに切れたブルーベリージャムをまき散らした。

 

そしてフライパン投入時、裏表反転操作時同様、2辺をすっくと掴み上げて口に誘った。

 

カリッと始まる食感のIntro。二本あるうちの左側一本は、まるまるセラミックの差し歯である私の前歯でも感じる乾いた感触、硬すぎないが十二分にキレがあるパンの小麦の中の炭水化物の原子間の分割感。

 

この時私は踏み込んではいけない所に踏み込んでしまった事に気付いたが、完全に遅かった。

 

Intro に引きずられるように訪れるchorus。モッチリしたパンの内面層の柔らかさが口内の甘みを受け取る感覚器官に絶頂をもたらす。マーガリンの甘さでも賞味期限切れブルーベリージャムのそれでもない、パンの柔和さがもたらす甘み。まるで官能小説を初めて読んだ時のようなあまり刺激の強さに、かといって柔らかな田舎の旅館の若女将の様なその優しさに、私は白目を向かざるを得なかった。

 

その後もパンは一切手を緩めなかった。耐え難い、感覚への総攻撃が続いた。

 

カリッと始まり、モチッとフワッとモチャモチャと。

 

白目のまま、一気に1枚の食パンを食べ終えていた。

 

私はキッチンの使い古したマットの上に膝から崩れ落ちこう呟いた。

 

 

 

 

フライパンで...ウマイパン...

 

 

 

全然おもしろくない。

 

その後 私は1時間経たないうちにオーブントースターを粗大ゴミにぶち込んだ。

 

要は、フライパンだ。

 

フライパンの方が、パンが美味しく焼けるのだ!

 

ここまで読んだ皆さんが既にオーブントースターのコンセントをぶち抜いている事の想像は容易だ。しかし、それは早すぎる。あまりにも軽率、かつ危険だ。

 

まずは、自ら試して欲しい。

トースターで焼いたもの、フライパンで焼いたものを比べて食べてみて欲しい。

順番にだ。私の様にしてはならない。

私は鍛えられたSOLDIERなので白目を剥くだけで耐えられた。諸君は違う。

まだまだBABYだ。プールにもまずは心臓に水をちょぽちょぽかけてから入らなければならない。

少しづつ、試して欲しい。

トースターを捨てるのは、それからでも遅くはない。

そして、この実験からわかった新たな事実を何故自分はこれまで発見出来なかったかを考えて欲しい。パンを食べながら。

 

 

 

それは、皆さんが気を使わなかったからだ。興味を持ちきれなかったからだ。考えなかったのだ。

 

 

 

パンを。

毎日食べている、パンのことを。

 

 

 

今ある世界が普通であると興味を持たない事は危険なのだ。

だから私は今回、紛糾した。

 

 

 

 

 

パンについて考えろ

 

 

 

 

 

 ここまで言い切った私の本日の夢は、オーブントースターメーカーの開発者に黒い鉄板に縛られ、コンロを強火にされる悪夢と確定してしまった。

 

 

 

 

悪夢の中。

 

 

聴覚だけが目覚め出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シュツ、シュトゥルム、シュツ

 

(T) 勘定科目<自分>について

まだ会社に勤めていていて、簿記の資格取得のために勉強していた時に考えた、ちょっとためになりそうな話。

 

ためになる話の前に、

軽く簿記の説明をしなければならない。

ここをちゃんと読まないと重要な部分がわからなくなる。

 

 

簿記には2つ大きな財務諸表(なんかすごい重要な表)がある。
貸借対照表(バランスシート、B/S)と損益計算書(Profit&Loss、P/L)。どちらの表も真ん中に大きな線が縦に引かれていて、記入する欄が左右に分かれる。

B/Sには左側に資産(の増加)を、右側に負債(の増加)を書く。
P/Lは左側に費用(の発生)を、右側に利益(の発生)を書く

ここには"勘定科目"というものをひたすら書いていくんだけど、、
そいつらがそれぞれさっきの資産、負債、費用、利益に分類される。

現金(資産)、土地(資産)、未払金(負債)、光熱費(費用)、広告費(費用)、売上(利益)、受取利息(利益)等々、、、

そしてこいつら勘定科目に何かしらの動きがあったらそれをその都度書いていく。


例えばなんか商品を100円で買ったとしたら、貸借対照表に、

商品(100) / 現金(100)
↑資産の増加 ↑資産の減少

その商品を150円で売ったら

現金(150) / 商品(100)
売上(50)
↑資産増加 ↑資産の減少
        +利益の増加

こんな感じで日々の仕訳(しわけ)がある。
それを年に一回まとめたものがB/SとかP/Lになる。






(貸借対照表)


ざっとこんな感じになる。

サラッと説明したけど、簿記の試験ではこのB/Sを作るの結構めんどい。
なんか決算日になって、金庫からお金(資産)が見つかったり、あとは建物(資産)が火事でなくなったり、なんか無駄に別の会社買収したり、、、
くそめんどい算数を結構短時間でやらないといけなくて、なんか焦るし、はっきり言って二度と勉強したくない。

そんな感じの低めの意識でずっと勉強してたから、無駄ごともたくさん考えてた。


"自分の今のB/Sつくったらどうなんだろ?

資産は預金が150万くらい、、あと有価証券(株とか)が80万円くらい、あとはー、家はないし、土地もない、チャリが5万円くらいの価値かな、、、

うわ、全然資産ないなっ、こんなもんか、、他になんかないかな?"

 


そこで、勘定科目<自分>を思いついた。


給料を貰った時の仕訳は

現金(20万)  /  自分(20万)
↑資産の増加    ↑資産の減少



このように毎月自分が削られてることになる。

自分(資産)の価値はだいたい生涯年収くらいか。



[MY資産]
現金  150万
株   80万
チャリ 5万

自分  3億


おお、自分やばい、文字通り桁外れの資産だ。
これ毎月会社に少しずつ削られていく。
(削られるけど、生きるために現金をくれる、よくできたシステムかも)

ここで思った。
ある程度生涯年収のわかる会社員って"自分"の値段がネットとかに、ゴロゴロしてるし、みんな"自分"が数字で表せるサラリーマンのその安定さを求めて会社員になりたがるのだなと。
就職してなかったり、自営業だったりすると"自分"がいくらか全然わからんしなんとなく不安定だ。大企業だとつぶれにくいから"自分"がより確定的になる。だから大企業に入りたがる。


あと、もう一ついい事思いついた。
株とかで、ちまちま少ない"現金"をコロコロワンワンしてるより3億の"自分"に投資すべきじゃないか?と。

たぶんなんかスキルを得たり、いい給料の会社に転職したりすると
"自分" を増やすこともできるわけだ。

あとは重要だと思ったのは行動のスピード。
"自分"は若いうちの方が基本的に多い、1秒1秒寿命に向かって自動で削られていくと考えていいだろう。
ぼーっとしてゴロゴロワンワン過ごしてたらどんどん"自分"がなくなってく。

 

 

ぼくはいま会社を辞めたので、<自分>

がかなり未知数で不安定だ。

資産を使って、3億円のギャンブルをしているとも考えられる。

怖いけど、がんばる。

 

(Y) Life Is Journey

 

 

旅に憧れたのは中学生の頃、親族で6,7個上の男の人がインドの周遊から帰ってきた時だった

 

 

 

芸術大学を卒業した彼はポケットに財布とパスポートを入れたジーパンにTシャツ、サンダルで日本を出た。

私が行き先を知った時にはもうすでにインドにいた。

そして彼は、私がろくに勝てない弱小田舎中学校でサッカーをしている間に

インドを放浪していた。そして、約一年かそれぐらいで戻ってきた。

袋と楽器を大量に持って兵庫の自宅に戻ってきたとのことだった。

 

彼はその後も行動が早かった。

その楽器を様々なカフェで演奏して周り、地元の中学校の国際交流授業で演奏した。

持ち帰ったスパイスと布、自分の演奏した音楽を使ってカレー屋を経営した。

彼は自由に過ごす。自由に好きなところに住む。でも彼の周りにはいつも面白い友達がいる。

今は結婚して居酒屋を経営している。

 

 

 

私はその生き方や才能に憧れたが一方で絶対にそうなれないとも感じていた。

彼は身長180センチでサッカーでスカウトされた。

ボクシングジムに体験に行けばプロに育てたいとオファーが来た。

地元で開かれた音楽イベントのライブではDJ兼変な楽器の奏者としてトリを務め、

家の壁に絵を描いてくれと頼まれていた。

決して驕らず、敵を作らず、淡々と人生を楽しめる人で、その環境を自分で作ることができる人だった。

 

一方私は体も小さく高校ではサッカーで試合に出たり出なかったりだった。

中学校の合奏コンクールではカスタネットしかできるものがなかった。

絵を描くのは得意だったが絵の具セットを洗うのが面倒であまり色を丁寧に塗らず成績も微妙だった。

よって、特技はない。勉強も得意ではなかった。

 

 

 

そのまま大きくなった私は現在、サラリーマンだ。

23歳、残念ながらインドの旅人とは程遠い。

 

私は何も努力しなかったわけではない。

才能がないなりにもなんとか世界を広げようとしてきた。

アルバイトも色々やったし、そこでいろんな人と会った。

ベトナムカンボジアバックパッカーもしてみた。

スケボー仲間とかボーリング仲間とかフットサル仲間とか

いろんな友達もいた。喋るのが苦手でもがんばった。

いろんなことをやってみて自分の得意なこと、自分の土俵を探してきた。

しかし、敷かれたレールから外れる勇気はなかった。

 

そして、今の仕事にありついている。

私の持つ才能からすれば、今の会社に入ることができたのは正直不思議なことだ。

もしかすると、そういう面は多少うまくやれるのかもしれないとその時は勝手に感じてもいた。

だが私はまだ自分の才能が見つからない。私の魅力を精一杯話したいが残念ながらいまは無理だ。

 

しかし、これだけは確実に私の中に植え付けられている。

才能がなくても、リスクを受け入れる勇気がなくても、旅には出られる。

 

私は少なくともいま、兵庫の田舎を飛び出し東京のジャングルや茨城の変な土地に住んできている。

見たことない景色を何度も見れたし、絶対に自分で住むことを選ばないような土地に住めた。

受動的である点は些か残念だが間違いなくこれは旅だ。と、私は考えている。

この道を選んだことで東京にも友人はできた。地方から出て来た同じようなヤツとも知り合えた。

知り合った奴には地元の街にはいない、いろんな経験を持った凄い奴もいる。

 

これまで憧れていたインドの旅人とはやはり程遠いが、つまりこれが私の旅なのかもしれない。

これから、仕事でもプライベートでも様々な魅力ある人間を発見できるかもしれない。

 

人生の旅を楽しむのに才能はいらないと教えてくれたのは皮肉にも私自身だった。

私が憧れていたインドを放浪した才能に溢れる男の旅も、一つのJourneyの形だ。

私は私の旅をすればいい。形にこだわる必要はないのかもしれない。

これからもし私がレールを外れる力を身につけたなら、そうするだろう。

そしてきっとそれも楽しいに違いない。

 

旅が嫌いな人にもこんな私の思いを少しでもわかって貰いたい思いでいる。

リアルなJourneyを感じられる人生に憧れがない人は、この映画を見てほしい。

 

living is easy with eyes closed

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あなたが思うほど、人生の偶然に身を任せるのも悪くないと教えてくれる。

さっぱりした、ちょうどまた会いたくなるような別れがあるのもいい。

 

そして、逃れたいものがあったとき、思い切って飛び出すことができる人にも、

この映画はその行動力を賞賛し、選択が正しいと後押ししてくれるだろう。

 

良い出会いばかりではないし、居心地が良い所が恋しい気持ちにもなるが、

新たな世界が開けるような偶然ほどおもしろいものはない、

そんな旅がしたいと、より一層思えるようになった。

これからも私は新たな景色を見たい。新たな人の魅力を発見したい。

また、これから起こる出来事に備えて、少しでも自分の才能を見つけよう。

 

私の日曜は朝起きて、腕立て伏せをして、スターバックスに行った。

ブックオフに寄った。それで終わりだった。

銭湯に行けば完璧だったが、寒いからやめた。

普通の1日。そんな日もたまには悪くない。

 

明日からも私のゆっくりとした旅は始まる。